山積みの書類を掻き分けて、埋もれてた婚姻届に手を伸ばす。にんまりと笑う彼女の顔を思い浮かべると、自然と笑みがこぼれる。半分だけ記入されているその紙切れを眺めて、いまいち現実味のない未来に思い馳せて浮かれていた。あとは、僕がこの書類に判を押すだけで、絶対的な約束がされる。結ぶものが小指から法に変わる。それはとても明るい未来にも見えたが、どこかに薄気味悪さも横たわっていた。

先日、彼女からこの婚姻届を渡されたとき、僕は数秒間固まってしまった。頭の中がかき混ぜられる感覚がした。たぶんそれは、不安だ。果てのない暗闇に投げ出されるような、形のない、漠然とした不安。彼女のことは確かに好きだし、結婚したいと思ったこともある。だが、この拭えない不安が僕の決断を渋らせている。見えない未来が幸せで彩られて、にんまりと笑う彼女の瞳の奥に、どうしようもない暗闇がチラついていている気がして、数秒間固まった僕の右目からは、やり場をなくしたしずくがこぼれた。

僕は彼女を知らない。知れない。
きっと何年間傍にいても、これ以上を知れない。知らない。それでいいのだと思う。お互いの埋められない距離を肯定して、お互いを知れないことを肯定して、きっと諦めることのほうが多いほどに、どうしようもない関係だ。何も縮まれない。
そんなこと知ってる。よく知ってる。
否定したかった。疑念を拭えるほど強くはなれない。理想を追い掛けて追い掛けて追い掛けたって、距離は縮まることはない。幸福の基準が低いふりをして、僕は微笑んだふりをする。強欲な自分から目を逸らしても、あちらはこちらを、じっと見ている。

天秤の上で上手に踊ることが出来たら、理想と現実の兼ね合いをつけて、腹を括ってデスクに向かって、莫大な時間と寄添い頭を下げる。そんな風に見えた。そんな風に見ている。蝸牛のようにもぞもぞと蠢くその感情が、僕に与えられた器の中を悠々と進む。確かな現実を包んだロマンチックなオブラートは、薄っすらと中身を透かして、いやらしく舐めずった。

使い道のない悲しみを抱えて、暗がりの中で生きていく。
僕は、僕の話しか彼女にしないまま、朱肉に判を押しつけた。そのまま判をもう一度振り下ろすだけで、真っ赤な僕の名前が紙切れの上に滲んで、約束される。にんまりと笑う彼女の名前を、うわ言のように繰り返して、どんな気持ちになればよかったのか、わからないままでも、小指は切れる。切れる。切れる。約束。

コメントを残す