少しだけ僕に埃が積み重なって、息が生き返った頃、僕はゆっくりと目蓋を開き、耳を塞いでいた手を外した。
窓の外はやっぱりオレンヂ色に染まっていて、想像通りの時間だ。微かにポツポツと水滴が打たれるが音がする。
雨が降り出していた。
僕は服についた埃を払い、背骨を軋ませて立ち上がる。茶色い瞳で、窓の外を眺めた。
意味のない思考を幾つか終え、透明の薄汚れた傘を手に取り、玄関を開ける。
オレンヂの光がプアーっと照らした。まだ僕には少しだけ眩しくて、目が眩む。

一歩、また一歩と着実に歩を進め、僕はまた誰もの想像通りの場所へと向かう。
あぁ、なんて陳腐なんだろう、と僕はひとりシニカルに笑う。なんの意外性も、なんの希望も絶望もない、平凡な一日。
その平凡な一日を自ら蹴り上げ、いま終わらそうとしている。
ポツリポツリと傘に弾かれた雨粒は、傘の汚れを洗い流し、茶色く濁って地面へ抱きしめられていった。
だから僕のまわりだけ、雨は青のままでいれず、茶色く、汚く濁っている。振り返れば泥だらけの靴のせいで茶色い軌跡が残り、僕は帰る場所を無くさなくてすみそうだった。

錆びたウサギの置物が、ひとりブラブラと飼い主を探し、揺れている。僕はそれに慰めてやるかのように腰を下ろし、ウサギの置物を軋ませた。
隣ではパンダの置物が静かに横たわっている。
その上に八王子くんが、びしょ濡れになりながら座っていた。八王子くんの目線の先には泥にかわった砂場があり、砂の城がドロドロと崩れていた。

「…………………。」

僕は何をしに来たのか、なんて声をかけるべきなのか、なにも出てはこなかったから、沈黙を答えとして吐き出した。

雨粒の弾ける音だけ、それだけがこの公園を支配する。
びしょ濡れの少年と、ニヤニヤとくすんだ瞳の少年。これを俳優かやれば画になるんだろうが、僕たちは冴えない。
やさしさも持てないぽんこつだ。
その光景はただの悲しいホームレスにしか見えないだろう。

雨粒の弾ける音だけ、永遠のような時間に耳を澄ませる。ぽたり、ぽたり。
今、もしかしたら八王子くんは泣いているのかもしれないし、笑っているのかもしれないし、いつものように無表情なのかもしれない。
わからないけど、そのどれであってもどうでもいい。
僕はポケットの中のカッターナイフをぎゅっと握り、指先から浮かんだ血を、ポケットの底に溜まった砂に染み込ませる。
この時間に意味なんてない。
僕は傘をくるくると回し、雨を弾く。くるくると回す。くるくる。ぐるぐる。
正直に言ってしまえば僕はこの時間がかなり退屈で、出来れば家に帰ってまいんちゃんを観たい気持ちで揺れ動かされていたし、ひっきりなしに携帯で時間を確認していた。

そしてそのまま暫く時間が経ち、僕がまいんちゃんが終わってしまったことに落胆していた頃、わん!っと犬が吠えた。
僕が何気なく振り返ると、そこには血塗れのロングTシャツを咥えたポチ公が座っている。

「おい 」
僕は八王子くんの肩を叩き、ポチ公のほうを向かせた。

すると八王子くんは血走った眼をさらにギラつかせ、駆け足でポチ公の元へと向かっていく。
そしてポチ公から血塗れのロングTシャツを受け取ると、跪いてそれをぎゅっと抱き締めた。
その行動に僕もポチ公も驚きはしたが、ただ静かに黙って眺めた。

ポツリボツりと雨が僕らを洗っていく。薄っぺらな世界に確かなリアリティが塗られていく。

暫くして八王子くんはロングTシャツを滑り台の上に置き、僕に「カッターを貸してください」とやけに冷静な声色で言った。
僕はポケットから錆びついたカッターナイフを取り出し、八王子くんに手渡すと、八王子くんは自分の人差し指をズタズタに切り裂き、血塗れのロングTシャツの僅かな白い部分になにやら血文字を書き殴りはじめた。
それをポチ公と横から覗き込んでみると、汚い字で「八王子軍団」と書かれていた。

八王子くんはそのロングTシャツをぐるぐると木の棒に巻きつけ、深く息を吸い込むと

「ああ嗚呼ああああああああああああああああああああああ嗚呼ああああああああ嗚呼ああああああああああああああああああああああ嗚呼あああああああああああああああ嗚呼ああああああああああああああああああああああ嗚呼あああああああああああああああああああああああああああああああああァあああぁァァあああああぁぁぁあああああ嗚呼ああああああああああああああああああああああ嗚呼ああああああああああああああァあああぁァァああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

叫んだ。
それはこの街を震わせるような、八王子くんなりの泣き声だったかもしれない。

雨の青が、八王子を包む。
それは僕の茶色い足跡も、ポチ公の糞も、八王子くんの弟の血痕も、ぜんぶ青に染めた。
洗い流される。
ノアの箱舟には僕たちは乗れなかったが、この雨粒の青さが、好きだった。

すると声に反応してかどこからとも無くまーちゃんと三浦さんが現れて、僕たちに袋を差し出した。
中には肉まんが入っている。
僕はそれをかじり、ふぅ、と一息付いて

「つめたいな」

と、冷めた肉まんを袋に戻した。

三浦さんは携帯を弄りどこかに電話をかけ、バイト先と口論をはじめた。
まーちゃんはワニの置物でブラブラと揺られて、肉まんを笑顔で食べている。
ポチ公はブルブルと身震いをし、体に付着した水滴を吹き飛ばす。

八王子くんはドロドロになった砂場に、さっきのロングTシャツを巻いた木の棒を、旗のようにそこに立てている。

いつの間にか雨は止んでいて、僅かな風かTシャツを乾かしていく。
オレンヂ色の空がそれを照らし、長い影の伸びる八王子くんの後ろ姿は、いつもより近くに見えた。

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