「詩なんて書いてるのが、なんか馬鹿らしくなっちゃった。そうだ。歌でも歌おうかな。ねぇ、そしたら聴いてくれる?」うわ言のように呟きながら彼女は塗り終えたマニキュアをしげしげと見つめ、満足そうに微笑む。外からは冬の寒さが窓の隙間を縫って、部屋の中で暴力に変わっていく。石油ストーブは無機質に暖かさだけを吐き出し続け、間の抜けた音で延長を告げた。彼女が、ぼくの彼女になってから、彼女は、詩を書かなくなった。理由を聞いてみても、てきとうにはぐらかして悪戯っぽく笑うだけ。彼女のことは、ぼくは、何も知らない。
出会ったのはmixiのオフ会で、彼女は自己紹介でフランスの詩人が好きだと言っていた。ぼくも詩には明るいほうだったので、意気投合して二人で遊ぶようになっていって、気が付けばぼくのほうから告白していた。そのとき、彼女はマニキュアを塗り終えたときのように、満足そうに微笑んで頷いた。それから間もなく同棲を始めた。彼女は一人暮らしをしていたので、実家暮らしのぼくがそのままそこに転がりこんだ。同棲を始めて、少しだけ知れた彼女の断片的な情報。彼女はきっかり2週に一度、午前零時に泣き出す。夜が寂しいと言って泣く。3分から5分。ポロリポロリと、きれいに、泣く。そして大概はそのまま眠りにつき、夜中にもそもそと起き出して、月明かりだけを頼りに、自分の腕にメモをするように、詩を書きはじめる。それは単語だけで構成された散文詩で、ぼくには到底思い付かないであろう美しい言葉だけが並んでいる。感覚的にぼくとは全く違う理由で詩を書いてる気がして、ぼくはただその姿を布団の隙間からぼう然と眺めたいた。それだけが、たぶんきっと、この世でぼくしか知らない彼女の姿。

「聴いてみたい気もするけど、でも音楽なんて作れるの?」「ううん。だから手伝ってよ!二人で一緒にバンドをやりましょう」「駄目だよ。ぼくは音楽はからっきしなんだ。ねぇ。それより、何度も聞いて悪いけど、どうして詩を書かなくなったの?ぼくは君の詩のファンなんだ」「ふふ。本当に何度も聞くんだね。そんなにわたしのことが好き?」「真面目に聞いてるんだ。はぐらかさないでくれ」「怒んないでよ。わかったよ。答えるよ。あのね」彼女は照れ臭そうにして、どこか空虚を見つめなながら、ゆっくりと桜色の唇を、開いた。

わたし、ね。もう何も悲しくなったの。なにんも。ぜんぶって意味だよ。なーにんも悲しくないの。前はね。夜になるだけで幾重にも連なった悲しみが、大きなおおきなビルが崩れるみたいに、わたしの中に落っこちてきて、頭の中がぐしゃぐしゃになって、せかいが閉じてくみたいに、暗くなっていって、聞こえる音も、どんどん遠くへ消えていって、そのまま真っ暗闇の中を延々と、音もなく、光もなく、延々と、走るの。なにかから逃げるみたいに。こわくて。こわくて。ひたすら走るの。ずっと、ずーっと、走り続けると、突然水中に投げ出されてね、そこにはおおきなおおきなクジラがいて、わたしにきくの。なにがそんなに悲しいんだって。わたしは真っ暗闇の中なら開放されたよろこびで、笑うの。ありがとう。ありがとうって。そうすると、水が引いていってね、クジラは打ち上げられたみたいにグテッとして、静かに死んでしまうの。いつもそこで目が覚めて、今度は現実に放り出されて、なんか、ぜんぶが、キラキラして見えるんだよ。だからその気持ちを忘れないように、書くんだ。ひたすら。もうあんなところに行かなくてすむように。祈るんだ。かみさまに。もう忘れません。わたしを許してくださいって。それで、もう何度繰り返したわからないけど、もう忘れてないんだよ。ずっと覚えてる。そのこと。ずっとずっと覚えてる。ねぇ、これって君がいてくれるからかな。わかんないけど、もう、だから、あんなの、書かなくてすむんだ。嬉しいよ。すごく。嬉しい。ありがとう。

彼女はそう言って、また微笑んだ。その言葉を聞き終えて、ぼくは、何も答えず部屋の鍵をそっとテーブルに置いて、その家を出た。その日を最後に、彼女とは会っていない。最後に振り返ったとき、彼女はやさしく微笑んでいて、未だに、その表情が、忘れられず。未だに。ぼくは詩を書いていた。

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